2009年12月10日

渇愛を越えて

昨日はヨガ教室でした。

ヨガの先生が「与える事は受け取る事」について話していて、今の自分のテーマだったので、シンクロに驚きました。

見返りを求めて優しくしたり、認められる為に無理して頑張ったりという事を子供の頃からずーと繰り返してきていて、損得勘定でしか、人間関係というのが築けずにいた事に、自己嫌悪を感じていました。

私の事をもっと、気にかけてよ、愛してよ、認めてよって思う気持ちは愛を渇望するエゴの叫び声。

自分への激しい憎しみの思いの原因が分かったので、後はこれを聖霊に預けて、聖霊の視点で見えるようにお願いするだけ。
自分の最善の判断ではまた苦しくなるから、もう神様に委ねるしかないのです。
「御父よ、ここでの真実はなんですか?私には分からないので教えてください」
と祈りの言葉を捧げました。

昨日からの引き続きのレッスン

レッスン126

 

   自分が与えるものはすべて自分自身に与えられる。

 

  今日の想念は、自我とこの世界の考え方とは全く調和しないが、この教えがもたらす、考え方を逆にする試みにはとても重要である。もしあなたがこの想念の述べていることを信じるなら、完全に許すことや確実な目標や確かな方向性をつかむことには、なんの問題もない。あなたは自分が救いを得られる手段というものを理解できるし、それを今使うのをためらうこともないだろう。

  ここで、この想念の代わりに、あなたが今、たしかに信じていることをよく考えて見よう。あなたには、他の人は自分と離れているように思え、あなたの思いに何の関係もないように振舞えるようだし、あなたの思いも他の人の思いには何の関係もないように思える。したがって、あなたの態度は他の人に何の影響も及ぼさないし、その人たちの助けを求める訴えはあなた自身のとはなんの関連もないとする。そのうえあなたは、その人たちが罪を犯かしたとしても、それが自分自身に対する見方を変えさせることはなく、その人たちの罪に審きを下しておいて、その有罪判決から離れて平安でいられると思っている。

  あなたが罪を「許した」としても、自分には直接なんの得るところもない。あなたはお情けをそれに値しない者に与え、ただ自分のほうが許そうとしている相手よりもすぐれていて、格が上だということを示そうとするだけだ。その人はあなたの情け深い寛大さを受けるに値しないが、それをあなたはその贈り物にふさわしくない者に授けるというのも、その人は本当はあなたと同等な立場にあるのに、罪を犯して自分の格を下げたからだ。その人にはあなたの許しを求める権利はない。それはその人に贈り物を差し出すことにはなるが、あなた自身にはまったく何も差し出してはくれない。

  こうした次第で、許しは基本的に不合理なものとなり、気まぐれで情けをかけたり、不相応に優しくしたり、その贈り物を授けるときもあれば、授け ないでおくこともある。許しに値しなければ、許さないでおくことが正しく、それを与えないでおいて、自分が苦しむことになったら、それが当然とはいえない。自分が許す罪は自分自身のではない。自分以外のだれかが罪を犯した。だから、もしあなたが慈悲深くその人に値しないものを与えたとすれば、その人の罪 はその人のものではないと同様、その贈りものはあなたのものとはいえない。

  もしこれが本当だとすれば、許しには信頼して確信が持てるような根拠がない。それは奇抜な行いであって、時には受けるに値しない猶予を大目にみて与えることにすることもある。とはいえ、罪人に自分の罪にたいする正当な償いをするのを免れないようにさせる権利はあなたに残っている。天にまします御主が、この世の救いをこんなことに左右されるがままになさると、あなたは思うだろうか。もしあなたの救いがこんな気まぐれにもとづいているなら、実際のところそのお方はあなたのことをたいして気にかけておられないということになるのではないだろうか。

  あなたには許しというものがよく分っていない。あなたの見方によると、それは公然と攻撃するのを阻止しているだけで、あなたの心の中での訂正を 要求してはいない。あなたの知覚の仕方では、それが自分に平安を与えることはできない。それはあなたが自分以外のだれかの中にあると見ているものから、解放される手段にはならない。それには、自分はその人と一つに結ばれているという自覚をあなたに取り戻させる力はない。それは神があなたのために意図なさったものとはいえない。

  神があなたに求めておられる贈り物を渡していないので、あなたは神の賜物を見分けることができないだけなのに、神が授けてくださっていないもの と思い込んでしまう。しかし神は、それがあなたのためのものでなかったら、あなたにその贈り物を求めたりなさるだろうか。神はうわべだけのそぶりで満足して、そんな取るに足らない贈り物を神の子にふさわしいものだと評価なさることができるだろうか。救いは、こんなことよりもっといい贈り物である。その救い を得る手段となる本当の許しは、それを与える心を必ず癒してくれる、与えることは受け取ることであるから。受け取られていないままになっているものは、与えたことにはならないが、与えられているものは必ず受け取られている。

  今日、我々は与える者と受け取る者は同じだという真実を理解するように努めよう。このことはあなたが慣れている考え方とかなりかけ離れているの で、それを有意義なものにするには助けがいるだろう。あなたに必要な手助けをしてくださるお方はいらっしゃる。今日こそそのお方を信頼して、あなたが実践することを本当に今日、分かち合ってくださるようにと頼むがいい。そしてもし、我々が今日実践する想念に見いだせる解放感を、あなたがほんの少しでも感じ とることができさえすれば、この日は世界にとって素晴らしい一日となる。

  今日は二回、十五分間ずつ、今日の想念を理解しようと試みるがいい。この思いによって、許しはあなたが優先すべきこととして、それに適した場を 占めるだろう。この思いこそが、許しが何を意味するのか分り難くしているすべてのことからあなたの心を解放して、あなたにとってそれにはどんな価値があるか気づかせてくれる。

  静かにして、許しというものを理解していない世界に目をつぶり、いろいろな思いを変え間違った信念を捨てることになる、静かな場所に聖域を探し 求めるように。今日の想念をくりかえして、それが本当に何を意味するか理解できるように助けてほしいと頼むがいい。教えてもらう気になってほしい。真実と癒しをもたらす御声があなたに話してくれるのを喜んで聞いてほしい、そうすればあなたはそのお方が話す言葉が理解できるし、そのお方が話しているのは自分 の言葉だということにも気づくであろう。

  できるだけたびたび、今日自分には目標があるということを思い出すように、それはこの日を自分自身ときょうだい全員にとって、特別な価値がある 日とすることを目指している。あなたの心にこの目標を長いあいだ忘れてしまうことのないようにさせ、つぎのように自分自身に言い聞かせる。

 

   自分が与えるものはすべて自分自身に与えられる。これが本当だということを

    習うために必要な手助けをしてくださるお方は、いま自分と共に居てくださる。

   だから、そのお方を信用することにしよう。

 

そのあと、そのお方が訂正してくださることと、そのお方の御愛に自分の心を開いて、静かなひとときを過ごすといい。そのお方から聞くことをあなたは 信じるようになる、そのお方が与えて下さることをあなたは受け取ることになるのだから。







posted by さくら at 11:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年12月07日

豚シャブで忘年会

先週の土曜日に、ヨガ教室の忘年会に行ってきましたー♪

今年オープンしたM-スクエアビルの2階にある「ダイゴ 桜邸」に行きました☆
新冠産の黒豚のシャブシャブがめっちゃ柔らかくで美味でしたわーい(嬉しい顔)
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私の向かいに座っていらっしゃった方が最年長で68歳だったのですが、すっごくお元気でパワフルで素敵でした☆
おば様達のパワーに圧倒されて、ちょっと萎縮気味の私でしたが、なんだか女性の生命力の強さを感じられて良い時間を過ごせました。

うちの母もそうですが、50代60代の女性ってスーパーウーマンだなって思います。
子供を生んで育てて、育児と家事をして、仕事を持っていらっしゃる方もいてほんと凄いです。
昔は今より不便で、家事労働がもっと大変だったと思うし。
そして色んなサークルに参加されて、運動していて凄いです。

行動して何かを成すという価値観の中で、努力と根性と忍耐力が半端ないくらい凄いんだろうと思いました。

私の中では、子供を育てるっていうのが、自分を犠牲にしなくちゃいけないんじゃないのかなーって思いが強いです。
子供が欲しいなと思う時もあるけど、子育てが大変なイメージしかないので、私には無理なんじゃないかとも思うし。
お金もかかるし。
なんで産みの苦しみがあるのかも分からないし。
痛みが強いとそれだけ、命の尊さが増すのかな?
愛と犠牲の違いが分かっていないので、なんだか葛藤してしまうのです。


ア・コース・イン・ミラクルズ的には、孤児になって神である御父から独立して、自力で生きようとするのが犠牲だよってなっていて、孤児の放蕩息子を辞めて御父の源に帰って神の意思に委ねるのが愛になっているのです。
文を読んで、理論は頭で理解出来ても、実際はなんとなくこんな感じなのかしらという状態です。
疲労感を感じて義務的で嫌な感じの時は犠牲で、自然にサラッと喜びながらしてる時は愛かなーと。
神様から離れてしまっているっていう信念が、犠牲を産みだすんだなーと頭でポヤッと理解した感じです。
これを体験に落とし込んで、腑に落ちる状態になったら「あー分かった」って心から納得出来るはず☆

子供を生む事に関しては今のとこは、喜びよりも義務感と不安感が強いです。。。
ワークをやって、出産と、子育て、仕事に関しての私の知覚はどうシフトするのかしら。
答えが返ってくるまで、聖霊にも聴いてみようっと。
posted by さくら at 18:26 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記

2009年11月09日

no more

一昨日、MTV見てて初めて聴きました。
心にとっても響いて涙が溢れた。

jasmine「no more





no more cry 償ってるんじゃない

no more cry 可愛そうなんて思わない

その気になれるなら、どんな涙も笑顔に変えていける

この歌詞の部分がとっても心に響きました


何事もその気になれるかどうかなんだと思う。
いつかはその気になるし。
その気になったらサクサク進むし。
その気になるまでに色んな言い訳しちゃうけど。
posted by さくら at 17:08 | Comment(0) | TrackBack(0) | 日記