ヨガの先生が「与える事は受け取る事」について話していて、今の自分のテーマだったので、シンクロに驚きました。
見返りを求めて優しくしたり、認められる為に無理して頑張ったりという事を子供の頃からずーと繰り返してきていて、損得勘定でしか、人間関係というのが築けずにいた事に、自己嫌悪を感じていました。
私の事をもっと、気にかけてよ、愛してよ、認めてよって思う気持ちは愛を渇望するエゴの叫び声。
自分への激しい憎しみの思いの原因が分かったので、後はこれを聖霊に預けて、聖霊の視点で見えるようにお願いするだけ。
自分の最善の判断ではまた苦しくなるから、もう神様に委ねるしかないのです。
「御父よ、ここでの真実はなんですか?私には分からないので教えてください」
と祈りの言葉を捧げました。
昨日からの引き続きのレッスンは
レッスン126
自分が与えるものはすべて自分自身に与えられる。
今日の想念は、自我とこの世界の考え方とは全く調和しないが、この教えがもたらす、考え方を逆にする試みにはとても重要である。もしあなたがこの想念の述べていることを信じるなら、完全に許すことや確実な目標や確かな方向性をつかむことには、なんの問題もない。あなたは自分が救いを得られる手段というものを理解できるし、それを今使うのをためらうこともないだろう。
ここで、この想念の代わりに、あなたが今、たしかに信じていることをよく考えて見よう。あなたには、他の人は自分と離れているように思え、あなたの思いに何の関係もないように振舞えるようだし、あなたの思いも他の人の思いには何の関係もないように思える。したがって、あなたの態度は他の人に何の影響も及ぼさないし、その人たちの助けを求める訴えはあなた自身のとはなんの関連もないとする。そのうえあなたは、その人たちが罪を犯かしたとしても、それが自分自身に対する見方を変えさせることはなく、その人たちの罪に審きを下しておいて、その有罪判決から離れて平安でいられると思っている。
あなたが罪を「許した」としても、自分には直接なんの得るところもない。あなたはお情けをそれに値しない者に与え、ただ自分のほうが許そうとしている相手よりもすぐれていて、格が上だということを示そうとするだけだ。その人はあなたの情け深い寛大さを受けるに値しないが、それをあなたはその贈り物にふさわしくない者に授けるというのも、その人は本当はあなたと同等な立場にあるのに、罪を犯して自分の格を下げたからだ。その人にはあなたの許しを求める権利はない。それはその人に贈り物を差し出すことにはなるが、あなた自身にはまったく何も差し出してはくれない。
こうした次第で、許しは基本的に不合理なものとなり、気まぐれで情けをかけたり、不相応に優しくしたり、その贈り物を授けるときもあれば、授け ないでおくこともある。許しに値しなければ、許さないでおくことが正しく、それを与えないでおいて、自分が苦しむことになったら、それが当然とはいえない。自分が許す罪は自分自身のではない。自分以外のだれかが罪を犯した。だから、もしあなたが慈悲深くその人に値しないものを与えたとすれば、その人の罪 はその人のものではないと同様、その贈りものはあなたのものとはいえない。
もしこれが本当だとすれば、許しには信頼して確信が持てるような根拠がない。それは奇抜な行いであって、時には受けるに値しない猶予を大目にみて与えることにすることもある。とはいえ、罪人に自分の罪にたいする正当な償いをするのを免れないようにさせる権利はあなたに残っている。天にまします御主が、この世の救いをこんなことに左右されるがままになさると、あなたは思うだろうか。もしあなたの救いがこんな気まぐれにもとづいているなら、実際のところそのお方はあなたのことをたいして気にかけておられないということになるのではないだろうか。
あなたには許しというものがよく分っていない。あなたの見方によると、それは公然と攻撃するのを阻止しているだけで、あなたの心の中での訂正を 要求してはいない。あなたの知覚の仕方では、それが自分に平安を与えることはできない。それはあなたが自分以外のだれかの中にあると見ているものから、解放される手段にはならない。それには、自分はその人と一つに結ばれているという自覚をあなたに取り戻させる力はない。それは神があなたのために意図なさったものとはいえない。
神があなたに求めておられる贈り物を渡していないので、あなたは神の賜物を見分けることができないだけなのに、神が授けてくださっていないもの と思い込んでしまう。しかし神は、それがあなたのためのものでなかったら、あなたにその贈り物を求めたりなさるだろうか。神はうわべだけのそぶりで満足して、そんな取るに足らない贈り物を神の子にふさわしいものだと評価なさることができるだろうか。救いは、こんなことよりもっといい贈り物である。その救い を得る手段となる本当の許しは、それを与える心を必ず癒してくれる、与えることは受け取ることであるから。受け取られていないままになっているものは、与えたことにはならないが、与えられているものは必ず受け取られている。
今日、我々は与える者と受け取る者は同じだという真実を理解するように努めよう。このことはあなたが慣れている考え方とかなりかけ離れているの で、それを有意義なものにするには助けがいるだろう。あなたに必要な手助けをしてくださるお方はいらっしゃる。今日こそそのお方を信頼して、あなたが実践することを本当に今日、分かち合ってくださるようにと頼むがいい。そしてもし、我々が今日実践する想念に見いだせる解放感を、あなたがほんの少しでも感じ とることができさえすれば、この日は世界にとって素晴らしい一日となる。
今日は二回、十五分間ずつ、今日の想念を理解しようと試みるがいい。この思いによって、許しはあなたが優先すべきこととして、それに適した場を 占めるだろう。この思いこそが、許しが何を意味するのか分り難くしているすべてのことからあなたの心を解放して、あなたにとってそれにはどんな価値があるか気づかせてくれる。
静かにして、許しというものを理解していない世界に目をつぶり、いろいろな思いを変え間違った信念を捨てることになる、静かな場所に聖域を探し 求めるように。今日の想念をくりかえして、それが本当に何を意味するか理解できるように助けてほしいと頼むがいい。教えてもらう気になってほしい。真実と癒しをもたらす御声があなたに話してくれるのを喜んで聞いてほしい、そうすればあなたはそのお方が話す言葉が理解できるし、そのお方が話しているのは自分 の言葉だということにも気づくであろう。
できるだけたびたび、今日自分には目標があるということを思い出すように、それはこの日を自分自身ときょうだい全員にとって、特別な価値がある 日とすることを目指している。あなたの心にこの目標を長いあいだ忘れてしまうことのないようにさせ、つぎのように自分自身に言い聞かせる。
自分が与えるものはすべて自分自身に与えられる。これが本当だということを
習うために必要な手助けをしてくださるお方は、いま自分と共に居てくださる。
だから、そのお方を信用することにしよう。
そのあと、そのお方が訂正してくださることと、そのお方の御愛に自分の心を開いて、静かなひとときを過ごすといい。そのお方から聞くことをあなたは 信じるようになる、そのお方が与えて下さることをあなたは受け取ることになるのだから。
